前田誠一郎から見た東京学芸大学軽音学部の変遷 その2

 東京学芸大学・軽音学部を創部して、いよいよ第2段階。
 部員は集まったものの、音楽は無知なものばかり、当時、楽器は高価で簡単には買うわけにはいかない。かろうじてN.N.がエレキギターとアンプ、私が安いフルート持っていましたが、他は全く持っていないのです。どのように楽器を増やしたかはっきり記憶にないが、ドラムはS.H.が音楽雑誌・スイングジャーナルの中古楽器紹介で購入したような…不確かな記憶があります。もう一人のギターリスト、K.Y.はキーコッコのギターリストWさんから譲り受けたかな?。ベースK.H.の楽器は全く記憶がないが新品では無かったような気がします。スウィングジャズ:クラリネットの名手S.W.は当初はピアニカでステージに上がっていました。スタートした41年4月には1年生でS.N.が入部し、ビブラホーンを担当しました。と言っても、ビブラホーンを買う金はとてもありません。ある音楽雑誌でエレホーンという楽器を目にしました。鉄琴の裏側にマイクセンサーが付いていて、アンプを通し、アンプのビブラートでビブラホーンのような音を出すのです。始めたばかりのガチャガチャしたサウンドのバンドにはそのエレホーンの音がとっても清らかで、ソフトでマッチしていました。女性も何人か入部しました。数学科から2年(同級生)K.N.(ギター)、家庭科のA.S.(ウクレレ)、沼波和子(ウクレレ〜スチールギター)、遅ればせながら入った2年理科の:Y(男性:酔っぱらったようなスチールギター)が入部してきましたので、4名はハワイアンバンドを組みました。
 そして、創部6ヶ月にして昭和41年夏、赤城山に初合宿に出かけることになったのです。今のように車もなく、電車と乗り合いバスに楽器を押し込み出かけました。K.H.は合宿の手荷物とコントラバスを持ち、N.N.はギターとアンプ、フルートしかない私はドラムの一部…てな具合ですので、赤城山行きのバスでは、私たちはイライラ、他の乗客も不機嫌、運転手も乗客と喧嘩になったり、大変な思いで、赤城山へ着きました。そのバス停からまた2キロほど楽器と荷物を担ぎ、東京大学の赤城寮へ着きました。そこが我々の合宿場です。最高学年が2年、血の気の多い野郎がほとんど、さてこの合宿はどうなるのでしょうか。
 
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